「孤独は悪いもの」という日本のクソ風潮と、僕と母親との関係

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お母さんはいつも僕にこう言っていました。

「凜とした人間になりなさい。自分を律しなさい。」と。

 

それがどのような人間かなど、まだ幼かった僕には自分の道を突き進んでいく人間というくらいにしか想像できず、「凜とした人間」という響きそのものだけを抱きしめて生きていた。

 

「凜とした人間」という意味を心から理解できたのは、随分と先のことになる。

 

 

僕はずっと孤独感を抱えていた

誰にも頼ることなくママの膣内を自力で這い上がってこの世に「こんにちは」した僕ではありますが、幼少期からやはり羞恥心はなく、誰よりも元気で明るい子供。

 

どこの地域でも同じかはわかりませんが、僕の地元の小中学校はスクールカースト的なものが存在し、2つの属性に分類すると

  • 陽キャラ〜中二病、ヤンキー、DQN、目立ちたがり etc..
  • 陰キャラ〜ガリ勉、真面目、つまらない、地味 etc..

 

といった風に分けられており、両者の溝はマリアナ海溝ほどの深さがあったように感じる。見ている世界が全く別なのである。自意識をむき出しにする多感な中学では個人の特性が顕著に表れるものだ。

 

陽キャラと陰キャラの狭間で

僕はどちらの属性を持ちつつも、どちらにも属さない人間であった。

 

勉強は科目で全国1位を取るくらいには出来たし、クラスでは周りは御構い無しに誰よりもふざけ倒していた。

側から見ると人気者ではあるが、どことなく居場所がなく強烈な孤独感を持っていたことを今でも覚えている。

「3秒後の幸福しか見えない人間」か「5年後の幸福しか見据えていない人間」が多く、心から本音を言い合える存在は皆無だった。誰と関わっていても物足りなさしか感じなかった。

 

そんな僕を支えていたもの。

それが、「お母さん」と「サッカー」だった。

 

孤独は悪いものという決めつけ

ちょうど14歳くらいの頃の話だ。

 

中二病、反抗期、サッカーの挫折

これら様々な複合的要因から、絶対的な存在である「お母さん」と「サッカー」を失い

僕は変わってしまった。

 

孤独は悪いものという現代における謎の洗脳で

僕は変わってしまった。

 

勉強もサッカーも頑張っていたあの頃とは正反対に

僕は変わってしまった。

 

 

周りに流され、悪友とつるむようになり

己の弱さを隠すために仲間と群れ、酒を飲み

孤独を極端に恐れ、自分と向き合うことからひたすら逃げ回っていた。

 

深夜に外へ繰り出す際

家族を起こすまいと、静寂に包まれた家の中でこっそりと足音を消して玄関まで歩き

玄関のドアを閉めた時に響き渡る「ガシャン」という音は

お母さんへの圧倒的な申し訳なさと、新たな世界へのワクワク感に満ちた

カオスな感情を僕に与えていた。

 

母親とのバトル、自己アイデンティティ確立における闘争など、思春期に想定される失敗は一通り経験し、高校退学にまでなってしまった。

そんな暴走をしたかと思えば

一転してエンジン切れに陥り、高校3年生の半年間は引きこもりにもなった。

 

僕はずっと凜とした人間だったのだ

 

そんな散々な高校三年間を過ごしたため、必然と浪人が決定。

僕がやりたいことはすでに決まっていた。

半年間も引きこもっていたら当然である。自分が何者で何がしたいかなんてことは嫌でも考えてしまうからだ。

 

それは、「お母さん」と「サッカー」という欠如を解消することだ。

それは、サッカーで全国大会に出てお母さんへ恩返しするということである。

そのために高知大学への進学を決意。偏差値30からひたすら勉強するだけだ。

 

暴れていた高校三年間から、まともな人間となり浪人時期を過ごしていた時、ある種のフラッシュバック的な感覚に陥った。

それは、「元に戻った」という感覚だ。

浪人というものは、一人で勉強するという孤独な時間をいかに成することができるかにかかっている。

そんな孤独な時間、昔に感じたことがあったなと。

 

そう、誰とも心から本音を言い合える友達がいなかった小中時代の感覚だ。

勉強もサッカーもずっと一人でこなしていたあの頃の自分。

あの頃だって、今だって、孤独なことに変わりはなかったなと。

 

違うのは孤独なんてものは前提だということに気が付けた自分だけだ。

結局他人からの承認なんて本当にどうでも良いことで、自分がやりたいことをいかに貫き通せるか、自分が自分に承認することでしか幸福には慣れないのだ。

 

僕はずっと「凜とした人間」だったのだとその時に気が付いたのである。

 

 

孤独なんてものは前提である

 

・文章を書く時

・筋トレをする時

・サッカーの練習をする時

・読書をする時

 

これらの行為をする時の共通点は何であろうか?

 

それは、「孤独」である。

では、「孤独」の対義語は何であろうか?

 

それは、「創造」であると個人的には思っている。

 

何かをする時、人は自分と向き合い、自己の中から何かしらを絞り出して形を作り、創造する。

したがって、孤独から逃げる人間、寂しさに負け群れる人間というのは何も成し遂げることはできない。

 

あの頃の僕だ。

寂しさに負け

孤独を恐れ

群れの中で生きていた

あの頃の僕だ。

 

 

孤独というものは前提であるのだ。

寂しさに打ち勝って創造できる人間がどれほど素晴らしいことか。

自分の意思を貫き通せる人間がどれほど素晴らしいことか。

 

これを言い換えると、「凜とした人間」ではないだろうか。

 

 

大学入学してすぐ、お母さんがずっと言っていた

「凜とした人間になりなさい。」という本当の意味が少しだがわかってきた。

 

そんな想いを綴った手紙を母の日に送った。

それに対する返信がこれだ。

 

お母さんには感謝の気持ちしかない。

 

 

 

サッカーではなくフットサルだったが、全国大会に出てお母さんに見てもらうという僕の目標も果たされた。

 

長い時間でした。

本当に長い戦いでした。

 

孤独はいけないという社会の腐った風潮

日本社会には孤独はいけないもの、かっこ悪いものといったような、ネガティブに捉えられがちだなと感じている。

それは、メディアが作った大きな虚構が原因なのではないかと感じている。

 

よくある美男美女が主演の中身の薄いクソ映画がその象徴である。

孤独な美女が出会いや別れ、様々な苦難を乗り越え、友達やイケメン彼氏ができてハッピーエンドというありきたりな内容。

これらの映画に共通するのは、まるで孤独はいけないことかのように虚構を作り上げていることだ。

教室の片隅で一人でもくもくと本を読んでいる人間の何がかっこ悪いのだろうか?

 

 

こんなクソ映画よりも

「友達の誘いを断り続け、自分の信念を貫いて孤独に生きる人間」を描くほうがずっと感動的だ。

寂しさや誘惑にも負けず、孤独を貫いた男が本当の深いところで通じ合える友達ができる。

こんな素晴らしい生き様があるだろうか。

 

いまの世の中にはあまりにも孤独へのネガテイブな風潮多い。

そんな風潮に負けず、寂しさに負けず、孤独を貫き、自分を表現する。

その先にしか真の友人はいないのだと感じている。

 

 

これからも僕は孤独に

凜とした人間でありながら

孤独な人間同士で助け合いながら生きていきたいなと感じている。

 

そんなこんなで僕は今、地方と都市の格差を解消するためのプロジェクトを作り始めた。

4人ほどで小さく始めた事業ではあるが、自分の原体験から始まった事業なのでこれからが楽しみです。

 

 

それでは、

おっぱい!!!!