マザコンやんちゃブロガーってどんな人??
引きこもっていた。家に。18歳の冬。半年間。
白い天井を見つめながら、自分がこの先何をしたいかを考えていた。
当時、「考える人」の作者であるロダンが見ていたら、おそらく僕をモデルにしていただろうと思います。
また、今までの自分の人生の何が悪かったのか振り返っていました。
幼少期
1994年10月26日、北海道札幌市生まれ、江別市育ち。
両親、兄の4人家族に生まれ、甘い蜜を吸わせてもらい、親のスネをかじる事は愚か、ふくらはぎまで齧り散らかして育ちました。
お兄ちゃんの後ろをいつも追っかけている幼少期。
また、大のお母さんっ子で常にベタベタ。
6歳の時、お兄ちゃんとフェリーで北海道から仙台まで移動していたのですが、
お母さんに会いたくて太平洋のど真ん中で泣き叫ぶという珍プレーを披露しています。
当時から自分のチンチンを触るクセがあり、それは今でも変わっていません。
小学生時代
お兄ちゃんがしていることは自分もやらないと気が済まない性格でした。
僕は今もですけど、お兄ちゃんに憧れています。イケメンだし、優しいし。
そんなお兄ちゃんの影響で小1からサッカーを始めました。
北海道の強豪チームで活躍し
学校では騒いで成績トップクラスという嫌なやつでした。
世界は俺のためにあると思っていて、僕は自己肯定感の塊でした。
中学生時代
学力が地区で一番低い地元の公立校に進学しました。
一年生までは変わらず勉強を頑張り、学力テストの科目で全国一位も取ったり。
でもあの病気に感染しました。
誰しも感染したことがある。あれだよ。
そう、中二病。
僕は成長が遅く、身長も低く、徒競走は普通の女子にも勝てないほどでした。
当時、付き合っていた彼女と挿入する前まで事を済ませ
いざ出陣!!って時に、
剃り残したヒゲのようなうぶ毛が三本しかなかった僕は、挿入を辞退しました。
そんなトゥルンの刀を武器にどう戦えと??
木の枝一本で戦場に飛び込むようなものです。
そのくらい成長が遅かったのもあり、サッカーで挫折。
その挫折を埋めるかのように、二秒後の幸せしか見えない悪友とつるむように。
白い煙にまみれた友人の家のたまり場で酒を飲み、深夜俳諧というなんとも中学生らしい非行をする。
一年生の時の貯金を生かして、自称進学校へ進学。
高校時代
自称進学校へ進学するも、一年で退学を突き付けられる。
謹慎2回で退学に。
同じ不祥事で謹慎になった友人がもう一人いたのですが、僕だけ退学に。
この退学にはみんなが疑問に思い、今でも伝説として語られています。
大人の事情の怖さを知りました。
この時、ぼくは「別にいいじゃん、なんとかなるっしょー」くらいにしか思ってなく、退学してすぐに、友達と温泉旅行へ行くくらいの馬鹿でした。
仕方なく、クラーク記念国際高等学校という、0.5秒後の幸福しか見えない人ばかりの通信制高校へ編入しました。
キャバ嬢、ホスト、風俗嬢、引き込もり、ニート、退学者、シンプルにどこの学校にも行けなかった人、脱法ドラッグ使用者、ヤンキー、ホモが一つの教室に混在するカオスな空間でした。
編入して間もなく、そのような人たちに染まっていく自分がいました。
何も考えずに毎日遊んだ。
毎日遊んだ。
毎日遊んだ。
毎日遊んだ。
毎日遊びほうけた。
そんな僕は、卒業半年前に引きこもりになった。
幸い、通信制はそれでも卒業できる制度があった。
このままでは人生が終わると感じていたので、環境を変えたかった。
元々、根は真面目な自分は遊び呆ける事に疲れてしまった。
毎日、目的もなくダラダラと遊び呆けている自分に嫌気がさした。
引きこもっていた半年間、毎日、自分と向き合っていた。
一つの目的に向かって頑張る毎日があるからこそ、遊びが楽しいわけで。
遊びが日常になると楽しいわけがない。
相反する2つの高校に通った経験から得た、今でも大切にしている学びがある。
いわゆる偏差値が高い人間は、先を見すぎて今を楽しめていない人が多かった。
そうでない人間は、遠くを見ることはなく今を懸命に生きている人が多かった。
前者は一般的に、論理的思考力のある人間、努力できる人間が多い。
後者は一般的に、人間的魅力、カリスマ性、コミュ力に長けている人が多い。
言いたいことは、どちらが良い悪いではなく、どちらの人間も心から素晴らしいということで、一番素晴らしいのは2つのバランスを取ることだなって。
ただ、前者は訓練すれば誰にでも身につく能力だけど、後者の能力は生まれ持った天性の才能だと感じている。
なので、野性的な感覚に任せる事、直観的に生きる事をベースに論理的に考えられる人間がベストで魅力的だなって感じていて、そんな人間になりたいなって思っています。
そんな三年間だったので、必然的に浪人が決定。
高知大学と関西大学を目標に定め、半年間で偏差値30から60に上げ、2校とも合格。
サッカーで全国大会に出て、両親に恩返しがしたいという理由で高知大学へ進学。
中二病感染、激しかった反抗期、高校退学、浪人と、あまたの迷惑をかけてしまった両親。
ただ一つ言えることは、どんな事件を起こした時も、退学になった時も、浪人した時も、引きこもりになった時も、大学に合格した時も、全国大会に出れた時も、良い状態、悪い状態に関わらず、何一つ変わらずに僕を愛してくれて本当に感謝しています。
まともな人間になって、かりゆし58の「アンマー」を歌い、親戚10人程を泣かせました。
もちろん、お母さんも泣いていたのですが、お母さんが泣いているのを見たのは初めてでした。
お母さんごめんなさい!そして、ありがとう!!
大学生活
憧れの高知大学体育会サッカー部に入部、部員140名。みんな上手い。
当初Dチームで、1年生の終わりにはBチームまで上がるも自分の限界を感じた。
スポーツ・芸術の分野は特に才能の部分が大きいと思っていて、20歳になれば自分の能力もわかる。足が速くなることもなく、身長が伸びることもない。
ここは自分が勝てる場所ではないと感じ、自分が勝てるフィールドを探そうと決意。
ただ、高知大学に進学した理由が全国大会に出るためだったので、サッカーではないがフットサルで全国大会に出場。
予選では、ゴールも決めて親に投げキスもかませました。
様々な葛藤はありましたが、これでサッカーには見切りをつける事が出来ました。
それからの事とこれからの事
中学、高校で失敗したことがトラウマで、もう2度とあんな経験はしたくないと考え、入学後は、本の多読で見聞を広げ、ITを独学で勉強、高級スナックで勤務し経営者の話を聞くなど、将来の可能性と選択肢を広げようと頑張っていたので、見える世界が大きくなっていました。
なので、自分の活動を支えてくれる大学教授との出会いや、大人気インターンシップに合格など、様々な縁にも恵まれました。
これからに関しては、三年生の終わりに休学をかけて長期で東京で働こうと思っています。
いまはその受け入れ先を探していところです。
良い出会いがあればとひたすら願うばかりです。